ドクソロジーに何を想うかすら

 鏡で服装をチェックする。問題はない。
 今日の予定を頭の中で組み立てる。まずはレコード会社に行って色々なお話。その後、マネージャーと昼飯ついでに今後のスケジュールを組み、帰還。明日の夜にあるパーティーのために練習、といったところだろうか。練習も何もピアノはいつでも弾いている。
 不幸ながら、とでも言えばいいのか、同居人……同居犬……多分同居人の彼はそれもCDか何かだと思っているようだが。きちんと目の前で弾いたことはまだない。ただ、弾いているときは周囲の様子は何も見えないためもしかしたら彼も弾いている姿を見たことがあるのかもしれないが、バッツが見せたと思わない限り約束は意味を果たさないだろう。
 変装用といいつつ単に気に入っているだけの伊達眼鏡をかけると、同居人が寝ているゲストルームのドアを開けてみた。
 朝に弱いらしいスコールは昼も近くなってきたというのにまだベッドの中でうとうとしている。
「おはよー」
 挨拶してみるが効果はない。小さく唸って顔を枕に埋めた彼に苦笑した。
「おれ出かけるから。メシは勝手に食べていいからな」
 首が縦にゆっくり動いた。聞こえているのか怪しいが、テーブルに書置きを残したので大丈夫だろう。そっと立ち上がって部屋を出る。
 持ち物を確認し鞄に入れると玄関へ向かった。途中、何かが落ちる音がゲストルームから聞こえ、ボコが大声で騒ぎ始める。がたがたとまた音がした後、スコールがボコに向かって「解ってる!」と答えたのが聞こえた。やはり、彼はボコと話せるらしい。羨ましい。
 数秒後、散々な状態のスコールがバッツの前に立っていた。ぼさぼさの髪に落ちかけている瞼、そして肩から落ちているシャツ。薄く開いた目が眠たげなままバッツを見ている。
「しごと、か?」
「うん。昼過ぎには帰ってくるよ」
「ん……」
 目を擦ると頷く。またボコが何かを叫んで、スコールは俯いた。急かすようなボコの声に首を振ると、耳を赤くして顔を上げた。
「いって、らっしゃい」
「ん、行ってくる」
 笑顔で手を振るとドアを開けた。なんとなく、ボコが何を言ったのか解る。
「お節介だなあ、ほんと」
 だが、それが嬉しくてたまらないバッツもきっと重病だろう。見送りの言葉を家から貰ったのは初めてだったのだ。

「バッツ、今回もよろしくね」
「ああ、任せろって」
 優雅にスパゲティをフォークに巻きつけマネージャーのティナが笑った。果敢無げな、まだ少女のような雰囲気だがこれでいて辣腕である。
 CDの売り上げはまあそこそこ、と言ったところだ。担当者はふざけたジャケットのせいで人を逃しているようないないような、と口を濁していた。ポップスだと思って買って行く人もいるためイーブンらしい。スコールもジャケットの写真には目を白黒させていた。
「今後のことなんだけど、お話があったように定期的にCDは出して行きたいかなって」
「うーん……、ティナが必要だと思うんだったら、おれそこら辺よく解んないから従うよ。アナログ盤も出るんだろ?」
「あ、うん。勿論。それと、今後のライブとコンサートのスケジュール」
 バッグからティナは一枚の紙を取り出した。遠目からでも予定はぎっしりと詰まっている。少し引きつり顔でそれをもらうと、目を瞬かせた。
「……練習、ばっかり?」
「フリオニールが突然海外に行っちゃって。半年はソロで活動してもらうことになっちゃうの」
「なるほど」
 ドラムのフリオニールは海外に友人が多い。よく引っ張られてどこかへと行ってしまう。きちんとスケジュールの穴に連れて行くからいいものの、トリオを組んでいるのにこのソロの多さはどうなのだろうか。
 それがバッツ達と言われればそれまでなのだが。
「自宅でいいのか?」
「ええ。移動するのも大変でしょ?それに、ボコが可哀相だし」
 確かに、レコーディング中はあまり構うことができなかった。さらにもう一人家族が増えているわけだからこれはありがたいのかもしれない。
 きっと責任を感じて凹んでるだろうフリオニールに後でメールしておこうと思いつつ、クリームリゾットを頬張った。人が良すぎて断れない彼の返信を想像すると笑ってしまう。
「じゃあね、バッツ。明日はよろしくお願いします」
「おう、またなティナ。……っと、その伝票は渡してもらおうかな」
 立ち上がった彼女の手から伝票を取り返す。はにかんだティナは小さく頭を下げて手を振った。応えて手を振り返す。
 明日の夜は予定通り、友人宅でのパーティーのピアノだ。念入りに練習しなくてはいけない。そういえば招待券を貰っていたのを思い出す。
 スコールは、来るだろうか。

 ドアを開けた時に聞こえたのは、賑やかな叫び声だった。
 ばたばたばた、と走り回る足音。同時に犬の状態のスコールが玄関に立ち尽くしたままのバッツの後ろへと逃げ込んできた。そのまま廊下の向こうを威嚇するように見ている。
「こらー、お前!風呂にちゃんと入れ!」
「てぃ、ティーダ……?」
「あ、バッツお帰りッス」
 腕まくりをしてジーンズを捲り上げたティーダがタオル片手に現れた。管理人親子は勝手にバッツの部屋に入ることが出来る。この間のように急に熱を出して倒れた時、時間になっても待ち合わせ場所に現れないバッツを心配したマネージャーが二人に頼んだことが始まりだ。特にティーダはバッツの部屋が気に入っているらしく、父親と喧嘩したときなどよく入り浸っている。
 足元のスコールを見る。明らかに面倒がっている。確かに、人間の状態で入った方が数段楽だろう。
「そいつ、風呂に入れてやろうとしてるのに逃げるッス」
「あ、いや……うん、あんまり人に馴れてないらしくてさ、おれ以外と一緒に入るのを嫌がるんだよな」
「そっか、そういうケースもあるッスね」
 ふくらはぎを叩かれる。肉球の感触がするだけで痛くはないが、抗議の意味は解る。どうしようもないだろ、と思いながらティーダに引きつった笑顔で応じた。
「ティーダはどうしたんだ?」
「今日は休みッス。親父が、バッツんちにオレと同じくらいの歳の人が居るっていうから会いに来たんだけど」
 いないみたいッスね、と辺りを見回したティーダに頷く。まさか自分の足元にいますとは言えない。
「出かけてるんじゃないかな」
「携帯とか持ってないんスか?」
「あんまり好きじゃないみたいでさ」
「へえ」
 素直に頷いたティーダにほっとすると、その手からタオルを受け取った。
「あとはおれがやっとくから」
「はーい……あ、そろそろ戻らないと親父に怒られる!じゃ、バッツ!」
 嵐のように去っていったティーダの後姿をただ見送り、バッツは息を吐いた。なんとか誤魔化せた。スコールも彼が居なくなったことを念入りに確認するとゲストルームへ戻っていく。やがて人間の状態になると、据わった目でバッツの前に立った。
「アレはなんだ」
「いや、なんだって……ジェクトの息子のティーダだよ。会ったことあるだろ」
「それは知っている。なんでああも適当なんだ!」
 宥めながら話を聞けばティーダに色々と乱暴に扱われたらしい。悪気が無いのは見て解るのでどうしようもなかったようだ。苛々と話すスコールの頭を撫でると、一瞬硬直して大人しくなった。
「えらいえらい、疲れただろ」
「……そうでもない」
 大人しくなったスコールの肩を叩く。
「あれ、昼食べたのか?」
「…………あんたがいないと、この状態を維持できない」
「へ?」
「だから、あんたがいないと」
 それはつまり、バッツがいないと食事も出来ない、ということではないだろうか。どういうことなのかは後で詳しく聞くとして、バッツは急いでスコールの手を取って外に出る。
 そういう重要なことは、なるべく早めに伝えて欲しかった。


ボコさん最強伝説。
2009/11/07 : アップ