ある風邪引きの幸運

 拾ってきた犬が、居なくなった。

 風邪で痛む頭を抱えながら、バッツは部屋の中を見回した。オウムのボコはいつも通り部屋の隅にとまっている。居ないのはこの間拾ってきた犬だけだ。
 一週間前だっただろうか、人のいない深夜の駅に捨てられていた。虐待されていたのか額に傷があった。鳴きもせず、バッツが前に立っても何の反応もしない優美な身体を持った彼を一目で気に入り拾ってきたのだ。幸いマンションは同居しているボコのためにペット可である。
 犬好きの管理人に色々聞きながら、役所に登録を出そうと思っていた矢先風邪を引いてしまったのだ。ごめんな、と謝れば彼はそっぽを向いていた。
「名前も決めてたのになあ。どこ行っちまったんだろ」
 声に反応してボコが鳴く。長い付き合いなのでバッツがたまにこうやって酷い熱を出すのを解っているのだろう。普段のように賑やかに喋ることはないが、元気付けるように相槌をくれる。
 いい奴だ、と思いながらバッツはボコの餌場に大量のペレットと少しの果物を置いてベッドに向かった。
 体温計は40度の大台を指している。ピアノも頭に響いて仕方がない。柔らかなマットに倒れこむと、帰ってきた時の為の餌を出し忘れたとだけ、思った。

「……これで、いいのか」
 ふわふわと熱に浮かされた眠りの中、額にひんやりとした何かが乗せられる。薄く目を開けるが、熱のせいか涙が溢れて何も見えない。低めの甘い男の声だ。聞き覚えはない。
「掛け布団?蒸しタオル?……なんであんたがそんな事を知っているんだ」
 ボコの鳴き声の後、焦った男の声がした。
「解った、解ったやるから突かないでくれ……っ」
 その言葉と同時に額に触れていた手が離れていく。さびしい、と思ったときには既に手を掴んでいた。びくり、と男の手が強張ったのが解る。中々大きい。
 体温の低いその手が気に入って、引き寄せた。頬にあててみれば熱が引いていく錯覚。男は慌てていたようだが、結局はバッツの好きなようにさせることにしたらしい。その様子がまるで彼を抱き上げた時に似ていた。
 ああ、と納得する。
「帰ってきてくれたんだ、スコール」
 安心して眠気が襲ってきた。声がまた何か言っているが聞こえない。だんだんと遠くなっていく意識の中、これだけは言わないと。
「おかえり」

 目が覚めたときには彼はすでに犬に戻ってしまったらしい。握り締めていた前足を解放すれば一度バッツの顔を見てすぐキッチンの方へ行ってしまった。
 あの出来事が夢だった可能性だってあるけれど、バッツとしては現実であって欲しいと思う。
「ボコはどう思う?」
 オウムは応えずに、羽をばたつかせて餌場へ飛んでいった。


猫もいいけど犬もいいよな!と思ったらこうなった。
2009/02/20 : アップ